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NO.1 「満蒙開拓と伊那谷」 (2009年2月7日掲載) NEW!

          ※.2005年発行の『満蒙開拓と伊那谷(慰霊碑は語る)』に掲載されたものです。なお、この
            『満蒙開拓と伊那谷(慰霊碑は語る)』は伊那谷地区に建立されている満蒙開拓関係の慰
            霊碑など28基の写真、碑文などを記録・収録したものです(自費出版のため在庫なし)
 

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『満蒙開拓団と伊那谷』


          .本文は縦書きでの掲載であったため、読みにくい点はご容赦下さい。

一.満州国と満蒙開拓団

 第二次世界大戦前、軍国主義体制下にあった当時の日本は、欧米諸国による中国やアジア各地に対する植民地化競争への参入立ち遅れを取り戻すために、台湾、朝鮮半島の植民地化と共に中国の旧満州地方(今の中国東北地方)を植民地化することを計画した。

 昭和六年(一九三一年)九月十八日、柳条湖事件(満州事変)が起き日本軍は旧満州全域に進攻、その翌年の昭和七年(一九三二年)三月一日、日本は旧満州地方に日本主導による「満州国」を建国した。領域としては現在の黒竜江省、吉林省、遼寧省、内蒙古自治区及び河北省の一部に及ぶ広大な地域であった。建国の精神として「五族協和」(日本、漢族、満州族、朝鮮族、蒙古族)、「王道楽土」を謳い、清国の最後の皇帝であった愛新覚羅傅儀を皇帝とする帝国であったが、実質的には日本と日本軍(関東軍)により支配された日本の傀儡(かいらい)国家であった。この満州国に対し諸外国は「実質的侵略」として非難し、これがきっかけとなって日本は昭和八年(一九三三年)、国際連盟を脱退し、太平洋戦争へと突き進むこととなった。

 この満州国に、疲弊、貧困していた日本国内の地方農民等の海外移住と、満州をめぐっての利権争いの関係にあったソ連に対する国防上の理由等から、二十年間で百万戸、五百万人を満州に移住させようという満州移民計画が立てられ、この国策に従い日本各地から満州開拓農民が募集され、昭和七年(一九三二年)から終戦の年の昭和二十年三月まで日本各地から約二十七万人の開拓農民が満州に渡った(満州を主体とするも内蒙古地方の一部にも入植したところから「満州開拓」とも「満蒙開拓」とも言う)

 満蒙開拓団は組織的にいくつかに分類されるが、大きくは通常の開拓団と青少年満蒙開拓義勇軍とに大別され、青少年義勇軍は十五~十八歳程度の青少年を募集し、短期間の訓練後に、主にはソ連との国境に近い地域に配属され、開拓と国防との両方を担うべく送り込まれた。

 建国当時の満州国は人口約三千万人、うち日本人約二十四万人であったが、昭和十五年には約四千二百万人、うち日本人約百万人であった。終戦時には百五十五万人(軍人を含む)の日本人が満州にいたと言う。この満州国は実質的には日本の植民地であり、日本人が全ての面で優遇され、他の中国人等の給与水準は日本人の六割程度であったと言う。「五族協和」と言いながら、日本人は一等国民、朝鮮人は二等国民、中国人は三等国民と民族差別が歴然としてあり、また「君が代」や教育勅語、日本語を強制的に覚えさせる等、実質的には植民地政策が取られていた。これに対して一部中国人等は反日活動を起こしたが、彼らには厳しい弾圧が加えられた。


二.伊那谷地区と満蒙開拓団
 
 この満蒙開拓団に全国で最も多くを送出したのは長野県であった。全国からの満蒙開拓団送出数約二十七万人のうち、県別に見た送出数の上位五件は以下の通りであった(但し、数字は派遣計画段階のものにて、かつ青少年義勇軍を含む)。これを見ても明らかな通り、長野県は全国の約十四%を占め、二位の山形県の約二.六倍相当の多さとなっている。なお、長野県からの実際の送出数は三二、九九二人とされている(長野県開拓自興会「長野県満州開拓史」より)

          一位  長野県 約 三七、八〇〇 人
          二位  山形県 約 一四、二〇〇 人
          三位    熊本県 約 一二、七〇〇 人
          四位    福島県 約 一二、七〇〇 人
          五位    新潟県 約 一二、七〇〇 人

 長野県からの送出数が全国で最も多かったのは、主には①.平坦地の少ない山間農村部が多いこと、②.世界大恐慌(一九二九年)、相次ぐ冷害により地方農村は経済的困窮状態にあったこと(当時、長野県の農家の四十%が養蚕農家)、③.教育熱心な県民性、等によるものと考えられる。

 そして、この長野県の中でも最も多くの開拓団員を送出したのが下記の通り飯田・下伊那地方であった(%は長野県からの実際の送出数とされる三二、九九二人に対する比率)。これに第五位である上伊那地方を加えると計一一、〇〇四人となり、上・下伊那(以下、「伊那谷地区」と言う)にて全県の約三分の一を占める。

          一位  下伊那・飯田   八、三八九 人  (二五.四%)
          二位  諏訪・岡谷     二、九七五 人  ( 九.〇%)
          三位  東筑・松本     二、九一八 人  ( 八.八%)
          四位  南佐久            二、六八一 人  ( 八.一%)
          五位  上伊那          二、六一五 人  ( 七.九%)

 とりわけ飯田・下伊那地方(以下、「飯伊」または「飯伊地区」と略す)の多さは群を抜き、全国で最も多かった長野県の中でも最も多い地域、言い換えれば全国で最も多くの開拓団を送り出した地域と言える。飯伊地区が長野県内でも最も多かった理由としては前記の長野県における理由①~③に加え、④.に地域の政界・教育界等に満蒙開拓推進支援者が多かったこと、⑤.「教員赤化事件」の挽回的意味合いもあったこと、等もあったとされている。

 このうち④.の満蒙開拓支援者が多かったこととしては、特に下伊那郡市田村(現高森町下市田)出身であり、満州国の吉林日本総領事館朝鮮課課長(兼朝鮮総督府通訳官)であった松島親造は郷里に帰国の際等に満蒙開拓推進を説いて回り、彼の学友等が飯伊地区の行政界や教育界の有力者となっており、これに賛同した等の背景がある。また、この点に関連して、下伊那地方では国学研究が盛んであり、この影響も受けていたとされている。松島親造の満蒙開拓推進活動により、自由開拓団方式による「松島自由開拓団」が組織され、飯田・下伊那地方出身者を中心とした四団の自由開拓団が吉林省内に開拓地を作っている。また、⑤「教員赤化事件」とは昭和八年二月、多数の長野県内の教員を含む共産党員の摘発事件であり、その中核的活動者が伊那谷に多かったところから、地域教育界においてもその挽回的意味合いとして満蒙開拓推進を後押ししたとされている。なお、当時、長野県は満蒙移民推進の指定県であり、特に下伊那地区は全国で十六郡の特別指定郡の一つに指定され、強力に移民運動が推進された。

 このように満蒙開拓は国策として推進され、行政、学校教育現場でも後押しをした。当時、飯田・下伊那地方は生糸の一大産地であったが、世界大恐慌により生糸の値段が暴落し、養蚕農家が多かった当地方の農家も貧困にあえいでいた。そこに「満州に行けば二十町歩の農地をもらえる。日本の国策にも貢献する」という宣伝文句につられて多くの人々が満州へ渡ることとなった。

 当時の伊那谷地区市町村の中で送出数が特に多かった市町村(旧市町村単位)は以下の通りであった。伊那谷地区からは村を分けて満州に分村を作るという「分村方式」のものも多かった(県内十二分村のうち飯伊からは四分村、上伊那からは一分村)。なお、旧市町村別で県内で最も多かったのは富士見村(現富士見町)で九八九人であった。

     (飯田・下伊那地区)
          一位  泰阜村      七九四 人  (県内第二位)
          二位  (旧)上久堅村 七〇七 人  (県内第三位)
          三位  (旧)千代村    五〇五 人  (県内第六位)
          四位  (旧)飯田市    四一三 人  (県内第八位)
          五位  清内路村      三七〇 人  (県内第十位)

     (上伊那地区)
          一位  赤穂町()   二五三人  (現駒ヶ根市)
          二位  南向村    二四八 人  (現中川村)
          三位  伊那町      二二九 人  (現伊那市)

 参考までに、昭和十年当時の人口に占める比率で見ると、飯伊一位は(旧)上久堅村で村人口の十九.七%、二位は清内路村の同十八.九%であった。
 

三.満蒙開拓団の現地での生活の様子等

 開拓団は移住当初は比較的ソ連との国境からも遠い地方であったが、後の開拓団ほど奥地であり、またソ連との国境に近い地方への移入が多かった。開拓団の配置は第一~三線開拓地に区分され、ソ連との国境に近い第一戦開拓地には開拓団の四十%、約八六、〇〇〇人が配置された。

 入植後、実際に原野等を開拓した開拓団も少なくないが、比較的多くは元々現地住民が居住、農耕していた住宅、農地を日本の現地機関である満州開拓公社(満拓)が半強制的に収用し、これを日本人開拓者に配分したものも少なくなかった。満拓は満州で当初段階で三六五万町歩を確保、これは日本の当時の国土の約十分の一に相当し、当時、日本国内の耕地面積は六一〇万町歩であり、その約六十%相当であった。満拓は最終的には満州で約二千万町歩、日本国土の約二分の一を確保した。

 なお、上・下伊那地区からの関係者が多い開拓団の各上位五団は以下の通りである。

     (飯田・下伊那地区から)
          一位 水曲柳開拓団   一、〇七二 人  (上郷村一七二、喬木村一四九等)
               (県内第五位)  ※.県内一位は黒台信濃村(一、六一三人)
          二位 大八浪泰阜村開拓団  一、〇五六 人  (泰阜村七一八等)
          三位 大古洞下伊那開拓団  九六一 人  (清内路村一一一、喬木村六一等)
          四位 新立屯上久堅村開拓団 八一一 人  (上久堅村四七三、神稲村一五九等)
          五位 南五道崗長野村開拓団  四九八 人  (河野村一〇二、上片桐村五五等)
                       (県内第二位)

     (上伊那地区から)
          一位 太平溝冨貴原郷開拓団   三〇二 人  (伊那町八〇、中箕輪村六九等)
          二位 永和三峯郷開拓団    二八五 人  (美篶村一一八、高遠町八九等)
          三位 南五道崗長野村開拓団   二八四 人  (南向村一四九、長藤村五四等)
          四位 苗地伊南郷開拓団     二五五 人  (赤穂町九八、中沢村四三等)
          五位 南陽伊那富開拓団        一七二 人  (伊那富村一六三等)

 日本人開拓者は広い耕地を確保し、現地の中国人、朝鮮人を小作人として使用し、言わば支配階級的な立場にあった。また、日常における現地の人々とのつきあいの程度の如何が終戦時の開拓団の末路にも少なからず影響を与えたと言われている。
 

四.終戦前後と満蒙開拓団の逃避行

 昭和十二年(一九三七年)七月七日、蘆溝橋事件が起き、「十五年戦争」とも呼ばれる日中戦争が始まった。その後、昭和十六年(一九四一年)十二月七日、日本は米英等との太平洋戦争に突入。当初こそ連勝であったものの、昭和十七年以降、次第に戦局が悪化すると、精鋭を誇った満州の関東軍も南方戦線や内地(日本本土)防衛のために満州を去り、満州国を守る関東軍の戦力は著しく低下し、足りない兵員を補充するために開拓団の十八~四五歳の青・壮年男性は全て徴兵されるようになり(根こそぎ動員)、終戦近くには開拓団には女性、老人、子供のみが残される状況となった。

 原爆投下直後の昭和二十年(一九四五年)八月九日、日本と中立条約を結んでいたソ連が突如、満州へと侵攻。この時、開拓民を守るべき関東軍は、戦略的目的からとの理由で、開拓団員に連絡しないまま南方に後退し、その際には河川に架かる橋などを爆破していった。国民を守るべき軍隊であるべきなのに何を守ろうとしたのか。結局は国民のための軍隊では無かった。開拓には守るべき軍隊の無い老人、女性、子供のみが残され、これにソ連軍、暴徒と化した一部の中国人等が襲いかかり、多くの犠牲者を出すところとなった。

 開拓団の一部は集団自決を図ったり、また終戦(一九四五年八月十五日)も知らずに逃避行を続ける途中で、襲撃されたり、激流に呑まれたり、疲労、飢え等で多くの犠牲者を出した。この終戦時の開拓団の最後や、逃避行での悲惨な有様は筆舌に尽くし難いものであった。また、この逃避行の過程で多くの残留孤児、残留婦人が生み出されるところとなった。

 どうにか逃げ延びた開拓団員達の多くはハルピン市(黒竜江省の省都)、長春市(旧名は新京市。満州国の首都であった。現在は吉林省の省都)、瀋陽市(旧奉天市)などで避難民生活を送り、その多くは終戦の翌年春~夏以降に日本の土を踏んだ。しかし、この終戦の年の冬を越せることなく、栄養失調、流行病のために多くの開拓団員が犠牲となった。戦後の集団引き揚げは昭和二三年(一九四八年)まで続き、生きて日本の土を踏むことが出来たのは開拓団員約二十七万人のうち約半分程度であった。

 また、終戦直前に徴兵された開拓団男性の多くは終戦時にソ連軍によりシベリアに連行、捕虜収容所に収容され、炭鉱や山林作業等の強制労働を課せられ、厳寒の地で、栄養失調、流行病等により多くの犠牲者を出した。生き延びた者は三年以上の抑留を経て帰国した。シベリアに抑留された日本人捕虜は公称五十七万人、実際には七十万人以上と言われ、シベリアの地には今も数知れない日本人同胞の遺骨がツンドラ(凍土)の下に眠っている。
 

五.残留邦人と日本への永住帰国

 終戦当時、逃避行に追い込まれた開拓団や、その後の避難民生活を送る中で、親や家族と死に別れたり、あるいは子供の命を助けるためにはと、やむなく子供を現地の中国人に預けた例も少なくなかった。また、家族を守るためにと、貧しく嫁をもらえないような中国人農家に僅かな金品で嫁に行かざるを得なかった女性達も少なくなかった。これがいわゆる残留孤児、残留婦人である。

 戦後、日本政府は残留邦人を十三歳未満を残留孤児とし、十三歳以上は自分の意思で残った残留婦人等として区別したが、残留婦人とて残りたくて残ったわけではなく、家族のためにと犠牲となった人たちであり、自分の意思でとは言い得ない状況下のものであった。

  この残留孤児・婦人(以下、「残留邦人」と言う)たちの多くは比較的貧しい中国人農家等に引き取られ、貧しい生活を送る人も少なくなかった。また、一九六五年から十年間も続いた文化大革命の時には、日本人残留邦人は「侵略者の子」等として非難、弾圧され、またその中国人養父母等も同じく非難、弾圧されることもあったと言う。また、養父母から日本人であることを知らされないままでいる人もあったと言う。

 なお、忘れてはならないことは残留邦人のほとんどは開拓団員の子等であり、日本軍関係者や満鉄等政府機関等の中では残留邦人はほとんど出ていないということである。ソ連軍侵攻と同時に軍隊も、また軍や政府機関の関係者、家族はいち早く列車で南下して逃げてしまい、開拓団の女、子供、老人のみが現地に取り残されたという事実は知っておくべきことである。

 満蒙開拓団の集団引き揚げは終戦の翌年から昭和二三年(一九四八年)まで続いたが、一九四九年の新中国成立と共に中断、その後、昭和二七年(一九五二年)に引き揚げが再開、昭和三三年(一九五八年)まで続けられた。その後は昭和四七年(一九七二年)の日中国交回復まで、残留孤児等の帰国はほとんど不可能となってしまった。残留邦人たちの多くは戦後、日本への帰国を希望したが、年老いた養父母や結婚等により家族を残したまま帰国することも出来ず、日中国交回復の昭和四七年までは帰国の希望すら持つことができなかった。

 一方、日本国内でも、先に引き揚げた開拓団員等の中から、中国に残された多くの残留孤児等がいることを知り、その早期帰国を訴える人たちも少なくなかった。特に阿智村長岳寺の住職であった山本慈昭は残留孤児捜し、帰国のために奔走した。また、その一環として、戦時中、日本国内に強制連行され重労働を課せられ犠牲となった中国人犠牲者の遺骨収集や慰霊碑建立をまず行うべきとの観点からの活動も起きた。伊那谷地区でも下伊那郡天龍村平岡の天竜川に構築された平岡ダムの建設現場に多くの中国人が強制連行され、八十人以上の中国人犠牲者があった。戦後、その遺骨収集、慰霊碑建立事業を契機とし、また残留孤児帰国支援活動を図るため、昭和三三年(一九五八年)に飯田日中友好協会の前身が設立されている。

 昭和四七年(一九七二年)に日中国交が回復、同時に残留孤児の帰国、肉親捜し、永住帰国等の道が開かれることとなり、昭和五十年よりは残留孤児の名簿が公表、昭和五六年よりは訪日調査が開始され、肉親捜しのための一時帰国が始まった。以後、平成十年まで三十三回の訪日調査が実施され、残留孤児・婦人の永住帰国が進むところとなった。

 長野県関係では昭和四七年から平成十六年までに残留邦人本人三九二世帯、一,五九九人が永住帰国している。現在、中国国内に残留している判明孤児等は平成十六年現在で十六名であり、これ以外にも消息不明孤児二十九名が数えられるが、他の未判明孤児等もあろうも、残留孤児の帰国は峠を越した状況にある。しかしながら、残留孤児・婦人の本人及び配偶者及びその子供一家族までが帰国補助対象とされるが、これ以外の子供や親族等のいわゆる「呼び寄せ家族」の来日は今も続き、長野県関係で長野県内に居住している残留孤児・婦人本人世帯は二六三世帯、七一三人に対し、二・三世世帯、いわゆる呼び寄せ家族は平成十六年段階で一,〇四九世帯、三,四八七人となっている。この呼び寄せ家族に対する行政等からの支援体制はほとんど無いところから、その生活支援、指導等が今後の大きな課題となっている。
 

六.帰国者たちの帰国後の生活と支援の現状

 全国一多くの開拓団を創出した長野県だけに、残留邦人、帰国者も当然に多く、飯伊地方だけで見ると平成十二年末までの残留邦人の帰国者数は本人世帯が九十世帯、二九六人、またその呼び寄せ家族(二・三世世帯)は二六七世帯、九四四人であり、現在約一、二〇〇~一、三〇〇人程度の中国帰国者及びその家族が飯伊地区に居住している。

 残留邦人の帰国に際しては日本政府からの各種の補助支援制度があり、金銭的支援のほか、伊那谷地区関係としては、平成六年に下伊那郡喬木村に帰国者の定着促進を図るための中国帰国者定着促進センター長野分室が、また同時に帰国者の自立支援のための中国帰国者自立研修センター喬木教室が設置され、ここで帰国者及び家族等の日本語研修や日本での生活習慣を学ぶための研修が行われている。喬木村の定着促進センターでは平成十二年までに九三世帯、三〇二人が修了し、自立研修センターでは平成十二年までに五四世帯、一二一人が修了している。但し、帰国者の減少に伴い、喬木村の定着促進センターは平成十四年をもって閉所となっている。

 中国から帰国した帰国者たちの生活等は決して楽なものではなかった。その多くは戦後数十年にわたり中国の地方の農村部で暮らし、日本語もほとんど話せず、生活習慣も異なる日本での生活に慣れることは大変なことであり、一部の地域住民の無理解等もあって摩擦等を生ずる例もあった。一部の学校等では帰国者児童のための特別学級等を設置した所もあるも、必ずしも十分な体制とは言えず、帰国後、残留邦人二・三世として辛い思いをする児童たちも少なからずいた。

 帰国者たちの生活は帰国時は国等よりの経済的支援等もあるも、その後は自立が求められ、生活費を節約するために住宅等も比較的古い公営住宅等であることが多く、必ずしも恵まれた住環境にあるばかりではなかった。また、バブル崩壊に伴い日本国内の景気動向も悪化し、日本語も不自由な帰国者たちの就労場所も少なく、生活に困窮する人たちも多い。また、高齢者の中には日本語も習得出来ず、地域社会とも融和できず、引きこもり状態となっている帰国者もあり、また健康に支障を持つ者も多く、生活困窮と共に老後の不安が募っている状況にある。

 帰国者たちの生活支援は行政等によるものが主であるも、長野県内では飯伊地区、上伊那地区等始め日中友好協会を中心とした民間ボランティアによる支援等が活発である。帰国時の住宅確保、就労先確保等から始まっての親身のボランティアが行われてきた。日本人残留邦人であることが判明しながら身元引受人がいない人たちのために日中友好協会が特別身元引受人となり、その帰国支援を行う例も少なくなかった。飯伊地区を活動エリアとする飯田日中友好協会(会員約三百名)でも平成十五年までに十七家族の特別身元引受となって受け入れている。しかし、このような官民合わせての帰国者支援は地方では比較的活発であるも、大都市部等ではそうばかりではなく、経済的にも心情的にも苦しむ帰国者も少なくないのが実情である。

 とりわけ残留孤児・婦人本人(一世)は当然に高齢化しつつあり、日本語も十分には話せず、長い年月を生活水準の低い中国農村部で過ごしてきたために、健康を害している者も少なくない。そのために仕事等も十分には出来ず、生活が困窮し、老後保障となる年金については当然に積み立て出来ておらず、残留孤児本人が特例法により支給される年金額は最低金額の三分の一、月額二万円程度のみという人も少なくない。

 このような帰国者の厳しい現状を背景として、二年前から全国各地で残留孤児等による国家賠償を請求する訴訟が提起され、長野県内でも同様の訴訟が提訴されている。彼らの訴えは「私たちは国から三回捨てられた」というものであり、終戦時に日本軍に見捨てられ、戦後長い間帰国出来ることなく中国の地に捨て置かれ、そして日本への帰国を果たした後も十分な支援を受けることなく見捨てられていると訴えている。

 この残留孤児たちによる訴訟についてはいろいろな見方があるが、訴訟の是非はともかくも、それ以前の問題として、高齢化し生活に困窮する残留孤児等の経済的・精神的支援を早急に図ることが重要である。その観点から飯伊地区では、飯伊地区帰国者連絡会、飯田日中友好協会等を中心として、長野県等に残留孤児に対する経済的支援充実を訴え、その結果、全国でも初の例として長野県単独にて残留孤児帰国者に対して毎月三万円の補助を行う「愛心使者事業」が実施され、継続していることは特筆されるべきことである。国家賠償請求訴訟も一つの方法ではあろうが、勝算の不透明な訴訟のために長い年月を費やす間に、高齢化し生活困窮している残留孤児等の生活の救済方法等についてまず出来ることからするべきである。訴訟等の前に、まず高齢化していく残留孤児たちの生活支援等をどうしていくかを官のみならず民においても考え、実効的な方法をもって実践していくこともまた大切なことである。残留孤児たちの「国は私達を捨てた」という声は決して「国(政府)」だけに向けられたものではなく、ともすれば帰国者を異邦人として冷たい目を向けがちであった国民自体にも向けられての訴えの声であり、かつ訴訟であることを知るべきである。訴訟など起こさなくてもよいような支援体制を官のみに押しつけるのではなく民をも含めて地域全体で作り上げていくことこそが必要であると考えるべきであろう。長野県内でも起こされている残留孤児訴訟に、全国一多くの満蒙開拓団を出し多くの帰国者が暮らす飯伊地方からは一人も訴訟に参加していないということの意味を考えてみて頂きたい。

 残留孤児・婦人はかつての日本の誤った国策が生み出した犠牲者であり、今もその歴史の帰結に苦しむ残留孤児等の姿は、戦後はまだ終わっていないということを如実に示している。国家賠償請求等により国に責任を問うのも一つの方法かも知れないが、国=行政のみに責任を押しつけるのも間違いであり、国の責任はこれを構成する国民の責任でもあるはず。日本という国の行った行為の責任は日本人一人一人も心に留めていかなくてはならない。私たち国民一人一人が残留孤児等支援に際して何を出来るのかを考えてみることが必要であり、行政と民間、官民一体となっての帰国者支援の充実こそが本来の帰国者支援の姿であると思う。それぞれが地域の中で、帰国者支援として出来ることを考え、実践し、そして戦争が生み出した不幸な歴史を二度と繰り返すことの無いように心に留めていくことこそ多くの満蒙開拓団の犠牲者、そして日本人のみならず多くの戦争犠牲者への慰霊となることであろう。
 

七.旧満州国の今と満蒙開拓を語り継ぐために

 かつて日本が作り上げた傀儡国家「満州国」は終戦と共に消え去り、僅か十三年間のみの「幻の国」となった。満州国が実質的には日本の植民地であり、国策にしたがって「お国のために」と信じて満州に渡った開拓団員たちも、その一方では残念ながら侵略の加担者でもあったという事実は忘れてはならないことである。日本人開拓団からも多くの犠牲者を出したが、同時に中国国民にも多くの負担を負わせ、多くの犠牲者を出した。その事実は事実として認識し、戦争に対する反省の下に、二度とあのような不幸な戦争を起こさないことを誓うことこそ、あの戦争で、あの旧満州で亡くなった日中双方の多くの犠牲者に対する鎮魂であり慰霊であることを確認しなくてはならないと思う。

 あれだけ多くの犠牲者を出した満蒙開拓団であるが、あの広い旧満州で、公に許されている日本人の公墓は実はたった一ヶ所しか建立が許されていない。それだけのことを中国に対してしてしまったという歴史の帰結ではあるも、戦後六十周年を経た今も戦争の傷跡は癒えていない。黒竜江省のハルピン市の郊外の方正県という所に唯一の「日本人公墓」がある。この方正公墓には「方正地区日本人公墓」と「麻山地区日本人公墓」の二つの公墓が建立されている。この方正公墓の墓参も日中間の歴史問題等が生ずると公式墓参さえ許されないような現状は極めて残念なことではある。この唯一の日本人公墓のことをもっと多くの日本人に知ってもらい、一人でも多くの人にこの公墓を訪れて頂きたいと思う。この保存維持に日本側でももっと注力すべきであろう。この唯一の日本人公墓には長野県県議の方等も多く訪問されているも国レベルにて閣僚クラス、あるいは国会議員クラスでも訪れた方はまだ無いのではないかと思われる。国策によって散った多くの日本人犠牲者の眠る公墓にもっと国政レベルでも関心を持って頂きたいものと思う。なお、この方正公墓の近くには平成七年九月に「和平友好之碑」が長野県開拓自興会の建立(長野県日中友好協会、信濃教育会などが協賛)されている。

 また、この方正県の日本人公墓と同じ敷地内に「中国人養父母の墓」も日本人関係者により建てられている。いろいろな状況、背景があった中とは言え、言わば侵略者の子であった日本人残留孤児を救い、育ててくれたことへの恩義は決して忘れてはならないことである。吉林省の長春市に「日中友好楼」という残留孤児の養父母たちだけが寂しく暮らす老朽アパートがある。残留孤児が日本に永住帰国してしまったために生活困窮した老養父母たちである。永住帰国した残留孤児たちは経済的に困窮し、養父母の生活を支援することも、一時帰国して会うことすらもままならない状況に置かれている。

 多くの犠牲者を出した満蒙開拓。確かに侵略という側面は忘れてはならないも、同時に、そこに人生を賭け、青雲の志を抱いて、旧満州の大地に渡り、開拓の汗を流した多くの人たちがいたということは決して忘れてはならないことであり、その歴史を語り継ぐことは、全国で最も多くの満蒙開拓団を送出した長野県の、そしてこの伊那谷の歴史として忘れてはならないことである。

 戦後六十周年の今年、飯伊地区では、飯田日中友好協会の提唱により、元満蒙開拓団員や残留邦人帰国者等にその体験を語ってもらう「満蒙開拓語り部の会」が発足し、約四十人の語り部が地域の集まりや学校での勉強会に出かけて行って、満蒙開拓体験等を話してもらっている。語り部の多くは高齢化し、これがもう多分は最後の機会として、今まで一度も語らなかった体験を話そうとしてくれる語り部もいる。話すことの辛い、悲惨な体験ではあるも、二度とあのような悲惨な戦争を繰り返してはならないという思いがひしひしと伝わってくる。語り継ぐことの重みと必要性を痛感する。

 確かに満蒙開拓は日本の海外侵略という側面をも負っている。しかし、私達はその体験の中から学び、二度と戦争は起こさないという意思を引き継ぐと共に、新しい未来に向かって行かなくてはならない。戦争という「負の財産」を友好交流という「正の財産」に置き換えていかなくてはならない。その試みは既に多くの実績を生み出している。例えば、前述の唯一の日本人公墓がある方正県と、多くの満蒙開拓団を送出した下伊那郡泰阜村とはこれを縁として友好提携関係を結び、双方の児童等が訪問しあっている。また、飯田・下伊那地方で最も多くの開拓団員が暮らした吉林省舒蘭市にあった水曲柳開拓団の関係により、平成十四年(二〇〇二年)十月には舒蘭市と飯田日中友好協会とが友好提携し、定期的に現地を訪問し、現地の就学困難児童の支援金贈呈を続ける等の民間交流が今も続いている。これらの活動も、戦争という不幸な過去の「負の財産」をきっかけとして、国際交流という「正の財産」に置き換えている例と言えよう。

 多くの犠牲者を生んだ満蒙開拓、そこに多くの人々がこの地域からも携わったということを語り継ぎ、その人々のことを忘れることなく、そして悲しい犠牲者を二度と出すことの無きよう誓い、満州の地に眠る同胞たちの魂の安らけきを願うばかりである。

       平成十七年十月                    
                                                    (文責・寺沢秀文)